佐藤浩希氏のパフォーマンスのハイライトは、派手な高速の足技などを披露する、過去のシンガポールフラメンコフェスティバルで招待されてきた著名ダンサー達のものとは、ひと味異なっていた。彼は突然踊りを中断し、観客に語りかけてきた―
ミュージシャンが演奏を止めるや否や、佐藤氏は慣れない英語で自己紹介を始めた。ところどころ「we(英語の“私達”)」というべきところを、「nosotros(スペイン語の“私達”)」などと口走ってしまう― 佐藤氏は英語が得意でない一方で、スペイン語は非常に堪能なのだ。この言語のギャップに、観客は笑い、彼の大らかな笑顔と豊かなジェスチャーに温かく応えた。やがて佐藤氏がフラメンコ独特のリズムに合わせた手拍子の取り方、「オレ!」と叫ぶかけ声を紹介すると、観客は佐藤氏の盛り上げに魅了され自然と習得し、彼がそのまま演目ラストのサパテアード(足技)に戻ったときには、盛大な声援と手拍子の海で彼を包んだ。
これは、2016年のシンガポールフラメンコフェスティバル、Versatility/Flamencoasiaの、二晩にわたる二度のパフォーマンスでのことである。佐藤氏の演目は、他のアーティストによるアジアのフュージョン音楽や舞踊が小一時間続いたあとの最後に予定された。客席から観劇したそのときは、我々は佐藤氏のこの振る舞いを、観客の目を覚ますための巧妙な技巧であると解釈したのだが、彼のシンガポール滞在最終日の朝にインタビューのために彼を訪問したとき、あれは単なる彼お決まりのパフォーマンスというわけではないのだと知った。あれは、彼が介護士という前職で学んだことの一部であったのだ。
踊りのキャリアへの道のり
Tシャツに短パンというラフな格好で我々の前に座り、佐藤氏は、二日間連続の休む間も無かったステージの仕事を終えた次の日であるにもかかわらず、この上なくスッキリした面持ちだった。感じるエネルギーも、舞台の上に見た彼そのままだ。
佐藤氏には、10代の頃に影響を受けたものが2つあると言う。1981年のスペインの舞踊映画「血の婚礼」におけるアントニオ ガデス、そしてジョンレノンの「イマジン」だ。そのイマジンの世界観を体現すべく、彼は高校でボランティアクラブを創設した。クラブでは、低所得世帯やシングルマザー世帯の子供たちが小学校の授業の後、学童の終了時間から保護者の帰宅時間までの間の時間を1人で過ごさないよう支援したり、活動を通して知り合った学外の先輩、神谷尚世氏と共に、全国の高校ボランティアクラブと交流を広げるなどした。
高校卒業後、神谷氏がNPOを立ち上げる一方で、佐藤氏は二足のわらじのキャリアをスタートさせた。一つはフラメンコダンサーの道、そしてもう一つは高齢者や障害者をサポートする介護福祉士の道である。
最終的に、佐藤氏はプロのフラメンコダンサーの道を選択した。師匠であり、パートナーでもある鍵田真由美氏と、フラメンコ舞踊団アルテイソレラを共同主催するようになり、2004年には文化庁芸術祭大賞を受賞した。
しかし彼は介護福祉士としての経験を決して忘れなかった。深く心の底から歌い上げるフラメンコのカンテは、障害を持つ子供が放つ叫び声やうなり声のようで、人間の持つ原初的なコミュニケーションや表現への欲求を彷彿とさせるのだ。
障害者コミュニティーにただいま!
佐藤氏が障害者のコミュニティーと再び接点を持つ機会は2006年に訪れた。静岡県湖西市手をつなぐ親の会の、諸障害を持つ子供達と舞台を作り上げるために、前述の神谷氏が彼を招待したのだ。
舞踊の指導歴と介護福祉士としての経験を併せ持つ佐藤氏であったが、プロジェクトは当初予想もできない壁に直面した。佐藤氏が指導にあたった初日、ダウン症、自閉症、上半身が不自由な子、下半身が不自由な子、様々な障害を持つ子供達を前に、彼は頭を抱えた。フラメンコの基礎である腕使いやリズムに合わせた手拍子を、スタジオでいつも生徒に教えているような統一的な方法で教えることができなかったからである。
“もう、どうしようかって、まったくもって打ちのめされちゃったね”と佐藤氏は回顧する。
「考えるな、感じろ」
最終的に佐藤氏が見いだした答えは、フラメンコの基本中の基本 「コンパス」にあった。彼が、10年前に別宅を設けるに至った第二の故郷スペイン、ヘレスで学んだフラメンコのリズムである。
ヘレスはブレリアスの発祥地である。ブレリアスとは結婚式、祭り、パーティーやあるいは道ばたで踊られるカジュアルな踊りであるが、スペイン人でないフラメンコ学習者には難しい。なぜならもともと即興を前提としており、かつ、とても複雑な12拍子のリズムで構成されるからである。ところがヘレスの地元では、子供でもブレリアスを踊ることができる。両親や、祖父母や、近所の人に教えられて。
“(ヘレスの地元で)ブレリアスを教えるときの秘訣は、説明なんかしないで、そのままリズムに入らせるんだよね。彼らは歌うように、トーマッサイ、トーマッサイ、トーマイ、トーマイ、ト、って唱えるのね”
ひとたび彼が普段生徒に教えているような指導の仕方から抜け出すと、事態は一気に変化した。子供達がトーマッサイの「うた」に応えだした。しかも皆のリズムが揃っているのである。それでいて、その応え方にはそれぞれ個性があった― ある者は立ち上がって足踏みをしながら体を揺らし、またある者は車いすに座ったまま頭を振り、肘掛けを両手で叩いた。
その瞬間、「障害者によるフラメンコパフォーマンス」というものが、曖昧な、理想上の概念でしかなかったものから、誰も意図していない、自ずから創出された現実となった。“ホントに僕の目の前で、まさに世界が変わったんだよね”と佐藤氏はそのときの情景を思い出し、顔を輝かせながら言った。
その最終的に表出してきた「もの」に従い、東京のスタジオと静岡の間を往復しつつ、佐藤氏は障害を持った踊り手達を6ヶ月間指導し続けた。公演は2006年の3月に行われた。
障害を持つ子供達がこのプロジェクトで学んだものはなんだったのだろう。この我々の問いには、佐藤氏は正直に答えを濁した。“彼らがこのプロジェクトから得たものを一般化することはできないよ。見た目にはっきり涙を浮かべて感動しながら踊ってる子もいれば、言葉で「感動した」とシンプルに伝えてきただけの子もいたしね。”ただ彼は笑ってこう続けた。“でも印象に残ったのは、健常者であるはずの父兄や介護士の人達の方がむしろ足手まといだったってことだね!”
アートの前に、人は平等
佐藤氏は5年後にこの障害を持つ子供達によるフラメンコプロジェクトを再演した。今日彼は、フラメンコは異なる文化間をも繋げる変容への手段であると考える。
“あのプロジェクトで何が特別だったかって、フラメンコが「介護する人」、「介護される人」達を変えたんだよ。フラメンコの音楽が奏でられている間、その瞬間、大人達は「親」じゃなくなって、子供達は「障害児」じゃなくなったんだよね。「親」とか「介護者」とか「障害者」とか「被介護者」とか、そういう社会的な役割性が消えてなくなって、みんなまっさらになっちゃったんだ”
このプロジェクトでより多くを学んだのは障害者ではなくて、実は佐藤氏自身も含めた健常者の参加者であったと、佐藤氏は考える。そして、芸術には社会的役割やその関係の非対称性を中和する力があるのだとも考える。“芸術は、人々をみんな平等にして一つにしてしまうツールなんだよね” “社会福祉と言うのはただ一方向に奉仕する、というものではなくて、ともに学ぶものであるだと、再確認したんだ”
“フラメンコのカンテは命の叫びに似ている。常に舞台上で演じられることを想定したクラシック歌曲とは違う。カンテは真っ裸なんだ。飾りなんてどこにもない。カンテは日常生活の一部で、そこから離れることなんてないんだ。”
佐藤浩希氏は、東京を拠点に活動する、フラメンコ舞踊家、振り付け師である。2004年の文化庁芸術祭大賞をはじめ、数々の国内外の賞を受賞。鍵田真由美氏とともに主催するフラメンコ舞踊団アルテ=イ=ソレラの拠点である東京と、別宅のあるスペインのヘレスを往復する毎日を送る。プロのフラメンコ舞踊家として活躍する以前は、介護福祉士および保育士として、障害者の介護に従事していた。
佐藤氏は2016年5月に来星、シンガポールフラメンコフェスティバルに出演、ワークショップを主催した。